アメリカ留学へGo 米国留学、アメリカ合衆国への道

海外留学へGo メインメニューへ

2006年11月24日

アメリカの大学 4年制

日本の大きな大学のように、学部、修士、博士課程を網羅している総合大学も多くあります。また、アメリカはとても広い国ですが、大学もまた、大きなキャンパスを持っています。

日本にはあまり多くない、スポーツビジネス学やスポーツトレーナー学などがあります。様々な心理学を学ぶこともできます。アメリカでは、スポーツや心理カウンセリングが盛んですからね。
日本人留学生もこのような専攻を多く学んでいます。

アメリカの大学 2年制の特徴

2つのコース
1)専門を勉強する職業訓練コース
観光学、秘書学、会計学、写真学、メカニック、調理学などの専門学校的な先行が多い。
卒業後の実践的な知識や技術を学ぶ・。2)卒業後4年制大学へ編入する為に大学で必要な一般教養を学ぶ編入コース
2)卒業後4年制大学へ編入する為に大学で必要な一般教養を学ぶ編入コース

アメリカの大学 2年制、4年制

アメリカの大学の年次の仕組みは、日本に似ています。2年制、4年制でも、前半は一般教養、その後専門を学びます。準学士号(Associate Degree)、学士号(Bachelor Degree)を取得します。
編入:2年制大学に編入用のコースがあります。2年制大学終了後、4年制大学に編入するというものです。2年制大学の方が入学基準が少し低い、学費が安いなどから、パターンをとる人が多くいるとのことです。
希望の大学へ編入するには、2年制大学ではしっかり勉強して良い成績が取ることが重要です。成績重視の書類専攻があるからです。

2006年11月17日

アメリカの歴史 西方への領土拡大 (1789-1861) 3

領土の拡大とフロンティア
米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。

続きを読む "アメリカの歴史 西方への領土拡大 (1789-1861) 3" »

アメリカの歴史 西方への領土拡大 (1789-1861) 2

米英戦争への道
1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。

ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態であった。アメリカは、中立の態度を取り、両陣営と両陣営の持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行った。両陣営とも、利益になる場合の貿易は許可したが、不利益になる事に関しては拒んだ。

続きを読む "アメリカの歴史 西方への領土拡大 (1789-1861) 2" »

アメリカの歴史 西方への領土拡大 (1789-1861) 1

建国初期
1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

アメリカの歴史 独立戦争と国家建設 (1776-1789)

[編集] 独立戦争と国家建設 (1776-1789)

アメリカ合衆国憲法への署名(Howard Chandler Christy・画)
ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。

しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいて最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントンが就任した。

wikipediaより

2006年11月16日

アメリカ合衆国の歴史 植民地時代2

英国からの植民団はニューイングランド植民地を建設したが、カナダに植民するフランスとの対立が生じ、17世紀から18世紀にかけて英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、植民地でも戦争が起こったため、一連の北米植民地戦争が続いた。この抗争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続いたが、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口が先住民を上回る地域が生まれた。18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここで重商主義政策をしいてさらに圧迫した。また、フランスとの長い戦争中に自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため、植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民は反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため、英国は翌年これらを撤廃したが、「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントンの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第二回大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議においてワシントンは、トーマス・ジェファーソンが起草し、近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。

wikipediaより

アメリカ合衆国の歴史 植民地時代

植民地時代 (1493-1776)

ピルグリムファーザー (N.Y.)イタリア半島を中心としたヨーロッパでルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルとスペインはいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島を発見した。これに引き続き、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国が領有(ニューイングランド植民地)、フランス人カルチエがセントローレンス川を遡ってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓がはじまった。特に現在のアメリカ合衆国に置ける植民地としての開発は当初から多民族国家となる運命を辿るかの様な植民地活動が行なわれた。メインとなる民族は、イギリス人とフランス人だが、ヴァージニアやカロライナにはイギリス人が、ルイジアナにはフランス人が、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人が、デラウェアにはスウェーデン人が、フロリダにはスペイン人が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いたのである。アメリカ東部には、すでに17世紀中葉に現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。

続きを読む "アメリカ合衆国の歴史 植民地時代" »

アメリカ合衆国の歴史 植民地時代前

植民地時代前
北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。彼らは独自の文化を育んだが、農業などは行わず、もっぱら狩猟などで生活を営んでいたため、広大な土地に比べ、人口はごくわずかであった。酋長とよばれた長を中心とした村をつくって社会を形成したが、人口が少なく農業も行わなかったため、村同士で争いあうことも少なかった。これにより先住民による統一したアイデンティティは発生せず、北アメリカ大陸で独自の国家は遂に生まれなかった。なお1000年頃ノルマン人(ヴァイキング)が北米へ達し、アメリカを「発見」しているが、その後の植民地活動はすべて失敗している。今日に置いて彼等の活動は、認知されることとなったが、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていない。近世まで北米には中南米に匹敵する文明が存在しないと思われていたが、近年発掘が進み、マウンド(土塁)と呼ばれていた古跡が、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在と確認された。それらはカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺蹟は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。

wikipediaより