オーストラリアの歴史4 ヨーロッパ人の探検 (オーストラリア留学へGo オーストラリアで学ぶ道)

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オーストラリアの歴史4 ヨーロッパ人の探検

ヨーロッパ人の探検

"Australia: the first hundred years", by Andrew Garran, 1886年 より
エンデバー号のレプリカ
チェイン・ギャング, シドニーの囚人
開墾する囚人, Port Arthur, タスマニア
州設立の歴史1606年にオーストラリア大陸に到来した最初の白人はオランダ人のWillem Janzであった。1770年にイギリス人のジェームズ・クックがシドニー郊外ボタニー湾に上陸して領有を宣言、入植が始まる。アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流刑植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団1030人の内、736人が囚人でその他は殆どが貧困層の人間であった。

1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進む。内陸を探検し、農牧地を開拓する。その段階で先住民から土地を取り上げて放逐し、反抗者は(時には反抗しない者も)殺害した。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた。19世紀の初めにはスペイン産メリノー種羊を改良し、以後羊毛産業が発展する。50年代にゴールドラッシュが発生すると中国系の金鉱移民に対する排斥運動が起こり、後の白豪主義に繋がって、やがて白豪主義は国是となる。

1901年にイギリスから事実上の独立をするが、独立後もイギリス国王への忠誠からイギリスの戦争には度々参加、第一次世界大戦ではオーストラリア&ニュージーランド軍団(ANZAC)が英仏軍と共にガリポリの戦いに参加しオスマン・トルコ軍との激戦を経験した。ANZAC軍のガリポリ上陸記念日である4月25日はアンザック・デーとして国民の祝日となっている。第二次世界大戦では日本軍の爆撃や特殊潜航艇によるシドニー港攻撃を受け、ニューギニア植民地(今のパプア・ニューギニア)やボルネオで日本軍と戦い、日本占領にも参加した。戦後、ヨーロッパ等からの白人移民は減り続け、国力となる人口増加は鈍った。そこで1960年代から白豪主義を転換し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行した。ベトナム戦争にも積極的に参加し、アメリカと共に戦い、それと同時にベトナム難民を数多く受け入れた。1975年イギリスから継承していたニューギニア植民地がパプアニューギニアとして独立した。2003年のイラク戦争にも参加した。

オーストラリアの周りは荒い海であったために、16世紀頃の世界地図にTerra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。

首都がキャンベラとなったのは、シドニーとメルボルンで首都争奪戦の末、妥協案として、シドニーとメルボルンの中間に新たに都市を建設して首都としたためである。

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2006年11月14日 23:15に投稿されたエントリーのページです。

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